交野ヶ原交野節について

「現代の河内音頭」のルーツといわれる交野節

 江戸時代中期~後期頃には、交野ヶ原(現在の大阪府北東部に位置する枚方市・交野市一帯)では「交野節」が唄われていたとされています。

 「交野」といえば、現在では大阪府交野市を指しますが、かつて「交野」といえば、西は枚方丘陵の尾根から、東は男山とそれを含む生駒山系、現在の枚方市の大部分と寝屋川市の東の丘陵部分、交野市の全域という、非常に広い地域を指しました。

 交野節の起源は諸説ありますが、最も古い伝説としては、正平3年(1348年)に楠木正行の軍勢が四条畷の合戦で討死した時に、ただ一人生き残った軍師の和田賢秀が交野に落ち延び、敵味方関係なく死者を手厚く弔って念仏踊りをし、その念仏踊りが村人によって踊り継がれて盆踊りとなったというものです。

 現在では、枚方市尊延寺地区と、交野市星田の2地域の節が残っており、枚方市尊延寺地区の交野節が、その素朴さ故に最も古い形を留めているとされています。

交野節の特徴について

 交野節の唄い方の特徴としては、「七七」「七五」「七五」という字数の3つの節(ふし)が最後まで繰り返されることが挙げられます。

 1節目の後に音頭取りが唄う「ヨホホイホイ」という部分に続いて、踊り子の「アーヤレコラセ―ドッコイセ」という掛け声が入り、3節目の後にまた「ソラヤートコサノサノヨイヤサノセ」という掛け声が入って区切りとなります。この音頭取りが唄う「ヨホホイホイ」の部分は、現代の河内音頭にも残っています。

 交野節では、「サテ踊り子さん」「イヤナンジャイナ」という、音頭取りと踊り子の掛け合いから音頭が始まり、最後も同様にして音頭取りと踊り子の掛け合いがあり、音頭が終わります。

交野ヶ原交野節について

 当保存会では、現在の枚方市・交野市一帯、すなわち交野ヶ原地域に残る交野節を「交野ヶ原交野節」と名付け、その唄とおどりの両方を保存しています。

 現在までに当会が保存している節と踊りが以下になります。

・枚方市尊延寺地区の交野節2種類・踊り2種類

・枚方市藤阪地区の交野節

・交野市星田地区の交野節と踊り1種類

・交野市私市地区の、かつて交野節で踊られていたのではないかと思われる踊り(私市おどり)1種類

 現在も、地域に残る交野節についての調査を進めています。